「細川ガラシヤ・光秀の実子に非ず」考

人物往来社(現、新人物往来社)から刊行されていた『特集 人物往来』の昭和三十四(1959)年三月号に、福岡県久留米市の郷土史家、井上蘆城氏が「細川ガラシヤ・光秀の実子に非ず」という論考を寄せた。ガラシヤは光秀の実子ではなく、実は石田備後守という人物の娘で、光秀の養女となって細川忠興に嫁いだことを石田備後守の子孫である久留米藩士石田家に残る「石田家覚書」によって明らかにしている。しかしガラシヤが光秀の養女というのは事実なのであろうか? 論考掲載から半世紀弱経った今、改めて検証してみたい。

「石田家覚書」は現在では「石田名字記」として活字で読むことができる[1]。それによると石田家の本姓は藤原、生国は山城、家紋は上り藤とある。また石田備後守は京都所司代であったという。妻の大岡殿は近江鯰江の出身で備後守との間に一男一女(別の箇所では一男四女になっているが)をもうけている。一男は石田右兵衛といい、一女がガラシヤである。名前を花宮といい、光秀の養女となって細川忠興に嫁いだという。

疑問となるのが、石田備後守が京都所司代であったという記載である。(孫引きであるが)室町時代の所司代は文明年間(1469〜1487)の多賀高忠以降は、天正元(1573)年の村井貞勝まで補任が確認できない[2]。通説ではガラシヤは永禄六(1563)年生まれであるため[3]、石田備後守が多賀高忠以前の所司代というのは備後守とガラシヤの年齢差を考慮すると考えられない。つまり備後守は多賀高忠以降の所司代ということになる。しかし傍証は何も無い。

石田備後守は所司代を務めたというが、『群書類従』収録の「永禄六年諸役人附」に石田姓の家臣は載っていない。「永禄六年諸役人附」の前半部分(足利義輝期)は永禄六(1563)年五月時点の記録とされるが[4]、備後守はそれまでに致仕あるいは死去していたと考えられる。しかしこの時点で名前が無く、後半部分(足利義昭期)にも無いとなると、光秀とのつながりはいつ生まれたのかという問題が発生する。残念ながら光秀とのつながりに関して「石田名字記」は一言も触れていない。

また「石田名字記」にはガラシヤの同母兄弟である石田右兵衛の子、石田勘助長政の没年と享年が書いてあるのだが、石田勘助長政は元和七(1621)年に八十六歳で亡くなったという。逆算すると石田勘助長政は天文五(1536)年に生まれたことになる。つまり石田勘助長政はガラシヤより二十七も年上となる。甥が二十七も年上であれば、石田右兵衛はガラシヤより四十以上年上であると考えられる。そうなると石田右兵衛とガラシヤの母親が同じであるという記載は非常に疑わしい。石田勘助長政の年齢は疑問となるところだが、渡瀬左衛門佐(繁詮)に家老として仕えていたとあるので、それを考慮すると妥当な年齢といえよう(なお、渡瀬左衛門佐は文禄四(1595)年に改易された)。

現在、久留米市立図書館で石田家の系図を二種類閲覧することができる。「細川ガラシヤ・光秀の実子に非ず」が参考にしたと考えられる、明治時代までの系図の載った「御家中略系譜」と、江戸期作成と考えられる「正徳諸士系図」である。前者にはガラシヤのことが載っているが、後者には一切記載が無い。また、不可解な点があり、前者によると備後守の娘の一人が久留米藩祖である有馬豊氏を生んだことになっているのだが、後者ではガラシヤと同様に一切触れられていない。ガラシヤは光秀との関係で省いたという考えもできるが、有馬豊氏の生母まで省いているのは謎である。

疑問となる点を幾つか挙げてきた。疑問と合わせて、ガラシヤが光秀の養女というのは石田家および久留米藩の史料以外で今のところ確認できない話であるため、ガラシヤは光秀の実子という通説を覆すものとは現時点では成り得ないであろう。

注記

  1. 鶴久二郎/編『久留米藩史料選』1972年
  2. 伊藤真昭『京都の寺社と豊臣政権』法蔵館 2003年
  3. 上総英郎/編『細川ガラシャのすべて』新人物往来社 1994年
  4. 長節子「所謂「永禄六年諸役人付」について」『史学文学』第4巻 第1号 1962年

【附録一】「御家中略系譜」抜粋

  右兵衛――――――――――――――備後守―――――――――――――+
   京都諸司代            諸司代            |
   其先従公家出以前之系図焼失    仕京都将軍家         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―右兵衛――――――――――――――――――――――――――――――+
|  仕信長公千二百石                        |
|                                  |
+―女                                |
|  明智光秀養女                          |
|  細川忠興室                           |
|                                  |
+―女                                |
|  別所氏養女                           |
|  長松寺殿《割注:春林院様御母公天正十六子十二月御逝去》     |
|                                  |
+―女                                |
|  別所紀伊守室                          |
|                                  |
+―女                                |
   岩室某室                            |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――+
|
+―勘助長政
|  剃髪号宗賀
|  妻吉田与一左衛門女
|  始領播州与川千六百石
|  仕渡瀬左衛門佐殿為家老
|  後仕春林公賜五十人扶持
|  元和七酉四月福知山卒
|
+―四郎右衛門
|  柴田陣討死
|
+―女
   岩室某室
   一此女中善太郎妻

【附録二】「正徳諸士系図」抜粋

備後守
 生国山城京都将軍末之公方家ニ致勤候親ハ京都所司代ニテ候由嫡子ハ
 右兵衛ト申外兄弟多有之候由

右兵衛
 信長公相勤身上千弐百石被下置候

宗賀
 渡瀬殿衆宗賀妹中善太郎母ト云
 左エ門佐殿衆之内十六人法印様御頼被置候由
 其人数之内ニテ有之由左エ門佐殿跡地遠州横須賀御拝領
 右十六人直被召出勘助義五十人扶持被下年寄剃髪仕御噺之御請杯仕
 福知山御供仕八十六歳ニテ病死