とある仙石の新八郎s

はじめに

東郷隆の小説『センゴク兄弟』に登場する秀久の兄、新八郎久勝。あとがきではその後、福島正則や山内忠義に仕えたと書かれているが、それは事実なのだろうか?『改撰 千石家譜』によると、久勝の通称は忠左衛門、右兵衛尉とあり、天正十四年(一五八六)四月三日に亡くなっている。また『土佐偉人伝』によれば、久勝は寛永十六年(一六三九)三月八日に八十八歳で亡くなったという。逆算すると久勝は天文二十一年(一五五二)生まれになり、天文二十年(一五五一)生まれの秀久より年下になってしまう(秀久には天文二十一年生まれ説もあるようだが、今は『改撰 千石家譜』および『仙石家譜』に従う)。よって秀久の兄である久勝と、福島正則や山内忠義に仕えた久勝は別人と考えざるを得ない。秀久の兄、久勝の事績はほとんど不明であり、あとは娘が一人いて秀久の養女となったことが分かるぐらいである。そのため当ペーパーでは後者の久勝の事績を紹介していきたい。

仙石久勝伝

通称は新八郎、但馬、丹後。美濃国長柄の出という。十四歳のとき(永禄八年(一五六五)のことか?)、刃傷沙汰を起こしたため家を出て、諸国を巡って武技を磨く。

元亀二年(一五七一)、信長の叡山攻めにおいて久勝は長谷川氏(丹波守か)の先陣に加わる。長刀を手にした膂力に勝る長身の僧が立ちふさがって他の者が苦戦する中、久勝はその僧を討ち取り、一躍勇名を轟かせた。

のち福島正則に仕え、関ヶ原の役においては宇喜多勢との戦いで一番首を挙げる。

広島時代の知行は『福島正則家中分限帳』によると二〇五四石。『福島正則断絶記』は最終的に知行八〇〇〇石で三原城番であったとする。(ただし後述する内容に従えば知行は三七七〇石であったと推測される)

元和五年(一六一九)、正則が転封されると京で浪人生活を送る。しかし翌元和六年(一六二〇)、久勝の勇名を聞いた山内忠義は正則に仕えていたときと同じ知行である三七七〇石を用意し、また放鷹を好む久勝に対して、土佐には絶好の土地があることを伝えて招こうとする。感激した久勝は招きに応じて土佐へと移った。やってきた久勝を忠義は中老職に迎え入れた。

島原の乱では何と八十七歳ながら出陣し、一軍を率いた。細川光尚の後見として出陣した七十九歳の沢村吉重を超える老将である。 久勝の麾下には長男左近為久、二男勘兵衛勝実、三男八左衛門勝家もいたが、総攻撃において軍法を守るようにという久勝の下知を破り、息子たちは毛利久八(毛利勝永の従兄弟の子、久八吉次であろうか)らと共に抜け駆けし、城へと乗り込んでしまう。(結果として手柄は挙げられたようだが)

島原の乱の翌年、寛永十六年(一六三九)三月八日に八十八歳で亡くなった。遺体は自らが勧進した秦泉寺村の愛宕神社に葬られた。

妻は冷泉為純の娘であろうか。(亨禄三年(一五三〇)生まれの為純の娘であれば久勝と同世代になろう)

その後の仙石家

久勝の没後、長男の左近為久は所領のうち一三〇〇石を安堵される。また次男の勘兵衛勝実は所領のうち三五〇石、三男の八左衛門勝家も同じく三五〇石を安堵された。そして四男の左平次為寛は慶安四年(一六五一)に七人扶持二十四石を与えられて馬廻となった。

明治から昭和にかけて鉄道事業に尽力した仙石貢は久勝の子孫という。

愛刀・布施無経(ふせむきょ)

布施無経は久勝の愛刀の名前である。ある日、馬を洗っていた家僕を叱責することがあった。家僕が言うことを聞かなかったため、久勝は布施無経で斬りつけたが、刀は家僕だけでなく馬までも一緒に斬り倒していた。生涯で五十余回、人を斬ったという布施無経にまつわる逸話である。

参考文献

『土佐偉人伝』『南路志』『関原軍記大成』「福島正則家中分限帳(『続群書類従』収録)」「福島正則断絶記(『蕗原拾葉』収録)」『改撰 千石家譜』『仙石家譜』『冷泉家譜』など